皇極天皇6年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮において中大兄皇子や中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺する「乙巳の変」が生じ、ここから「大化の改新」が始まります。

談山神社所蔵『多武峰縁起絵巻』
新たに即位した孝徳天皇は、大化元年(645年)8月5日、東国に国司を派遣し、戸籍の作成、田地の調査などを命じましたが、その際、国司が民衆から「貨賄」を受け取ることを禁止しました。
凡そ国家の所有る公民、大きに小きに所領れる人衆を、汝等任に之りて、皆戸籍を作り、及田畝を校へよ。… 他の貨賄を取りて、民を貧苦きに致さしむること得じ。… 判官より以下、他の貨賄を取らば、二倍して徴り、遂に軽さ重さを以ちて罪を科せむ。
【現代語訳】
およそ国家のすべての公民と、大小の豪族所領の衆人について、お前たちが任地に赴いて、みな戸籍を作り、また田畑を検校せよ。… 他人から賄賂を取って人民を貧窮させてはならない。… 判官以下は、他人から賄賂を取ったなら、二倍を徴収し、さらにその軽重によって罪を科する。(新編日本古典文学全集「日本書紀③」小学館1998から引用)
【チェシャ猫のひとりごと】孝徳天皇は、このように国司を東国に派遣し、戸籍の作成田地の調査などを行わせましたが、国司らが民衆から賄賂を受け取って私腹を肥やすことを禁止しました。その後、大化2年(646年)3月には、この詔に反して民衆から賄賂を受け取った国司のことが孝徳天皇に報告されています。「穂積臣咋が犯したことは、人民に戸ごとに物を要求し、悔いて返しましたが、すべてを返したわけではありません。その次官である富制臣・巨勢臣紫檀二人の過失はその上官を正さなかったことです。すべてこれより下位の官人もみな過失があります。」賄賂を受け取った国司のみならず、それを止めなかった部下の役人らも責任を問われていることは興味深いです。 |
コメントを残す